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時代を超えた路地は、尾道の文化遺産だと

路地学/Rojigaku> 路地シンポジウム/RojiShinpojiumu

路地シンポジウム/RojiShinpojiumu


路地シンポジウム/RojiShinpojiumu

<路地シンポジウム-路地から見たまちづくりの作法>


1998年、都市環境デザイン会議関西ブロック主催のシンポジウム「路地から見たまちづくりの作法」が尾道の共同福祉施設(現在の教育会館)で行われた。そのシンポジウムで基調講演に続くリレートークということで地元尾道のまちづくり活動家という立場で、吾輩の飼い主が発言した内容がホームページに掲載されていたので紹介する。

路地は都市のナビゲーター


『私が路地を意識したのは、15年ほど前の1983年頃になるでしょうか。その頃、 父の経営するタクシー会社にいまして、よく無線配車でドライバーに、「荒神堂小路の海岸側にどうぞ」と路地名を連絡していました。誘導するのに路地はとても便利なのです。路地の名前さえ言えば、その場所(地点と空間)のイメージがパっとドライバーの頭に浮かび迷うことがない。 それが路地を意識するようになった最初だと思います。その後「路上観察学会」の活動を知り、その魅力に取り憑かれ、まちをめぐり歩きました。それで路地の面白さが一段とよく分かってきました。』路地シンポジウム/RojiShinpojiumu


路地の面白さ


『1992年に企画会社を立ち上げたのですが、その年に建設省の後援で「中国・地域づくり交流会」主催のイベントがあり、中国地方の各地でシンポジウムが開かれることになりました。尾道でもやろうということになり、我が社の最初の仕事になりました。私の関係する尾道じゅうにん委員会という任意のまちづくり団体のメンバーたちの協力を得て、尾道でのテーマを「画面の中の路地考」として、建設省が対象としない道路である「路地」を取り上げることを提案しました。この時は、映画監督の大林宣彦さんに基調講演をお願いし、その後、参加者全員がチームに分かれ、まちを探索して楽しみました。そんなイベントを通して、参加者は身近な所に路地はあるのだと感じるようになりました。
路地の面白さの一つは、例えば、徒歩や自転車である場所に行こうと思ったとき、いろんな経路の道をそのときの気分に応じて、自由気ままに選べることです。これは実に面白い。車社会に合わせて計画された道路と違って、自然発生的に出来た「路地」は、人間臭くて思いもよらぬ新しい発見が出来て、実に楽しいものです。
また、尾道の人は他のまちの人と違って、「尾道はいいまちだ」とわがまちを自慢する人が多いのです。私もその一人ですが、なぜそうなのかと考えると、 やはり尾道という都市空間には、昔から引き継がれてきたある種の魅力に満たされている。その魅力が何らかの形で自分とつながっている。それがとても心地いいんでしょうね。』路地シンポジウム/RojiShinpojiumu


尾道の特徴


『尾道は人口が少ないわりに、昔から文化人など多くの人材を輩出してきたまちです。何故なのかはよく分かりませんが、やはりそれも尾道のまちの在り方と深く関わっているのではないかと考えています。
まずは尾道水道です。(潮の干満の関係で)川のように蛇行しながら、東から西へ、 西から東へと向きを変えて流れる海が、煩悩のすべてを浄化してくれること。それから路地と坂道です。これは同じものが、場所によっては全く違うものに見えてしまうという視覚的効果があります。そうした効果は、人間の頭脳に心地よい刺激を与えてくれるような気がします。
路地は、漁師さんが住むところもあれば歓楽街もあり、それぞれ違う個性を持っています。しかも、路地は都会でも田舎でもない曖昧なところがいい。光が射しているところもあれば陰もあり、広い道路から突然隠れることができるのも路地の面白さです。
路地にある家は、狭い空間に軒を出したり引っ込めたり、それなりに収まっています。そうした中で育まれたコミュニティの良さもいいところです。プライバシーが漏れてしまうというまずさはあるのですが、それだからこそお互いが信頼しあって生活できるという良さもあります。今晩のおかずのやりとりができる生活環境ですから、誰もがリラックスできるのです。だから路地の中では、猫も実にのんびりしています。』 路地シンポジウム/RojiShinpojiumu


<車社会における路地の役割>


『しかしながら、今の時代は車社会です。「尾道のまちも車を積極的に受け入れたまちづくりが必要ではないか」ということで、2年前に「車考クラブ」という市民会議で議論しました。しかし、その中の議論では「尾道では車の入らない路地空間が大事ではないか。車の入らない空間は、(猫だけではなく)住む人にとってもプラスになる」という結論に達しました。
車社会はたかだか百年に過ぎませんが、路地は時代を越えて長い歳月をかけて成立してきたものです。どんどん新しくなる、刺激的で緊張する現代都市も大事でしょうが、人をリラックスさせる緩やかな都市空間も大事だと思います。 尾道が人をホッとさせる和みの空間を持つまちとして、今後も成立し続けて欲しいというのが、生活者の立場です。そして、今住んでいる人の欲求だけでなく、過去に住んでいた人間(つまり、死者)、このまちを愛する多くの人々の意見も交えて、まちづくりを考えられないものかと思います。
現代の都市計画は、まるで図面の上に線を引くように画一的に作られますが、 そうすると曖昧さがなくなってしまうのです。路地は明確な計画性がなく成立した空間ですが、その曖昧さが住んでいる人間にはプラスになるのではないかと思うのです。ちょっと視点がずれて計算ができないまち、完璧ではないまちがこれからのまちづくりの目指すものではないかと、私は考えています。』
次は、パネルディスカッションのパネラーとして、吾輩の飼い主は次のような発言をしていた。路地シンポジウム/RojiShinpojiumu


私的空間としての路地


『尾道について吾々が考える場合、尾道三山(千光寺山、西國寺山、浄土寺山)に囲まれた狭い空間をイメージ・シンボル・ゾーンとして考えます。この都市空間には、重層性、密集性、界隈性と日常性が混在しています。 そして、それらを構成する重要な要素の一つとして「路地」があるのです。
道路は通常、公道です。公道で幅員が広いと、人間の意識の上では、道は公共物であって「私」とは全く関係のないものとなります。 路地という幅員の狭い、言ってみれば人間の両手を広げて届く幅の道であれば、公道であっても「私的」空間になってしまいます。その象徴的な風景が路地の植物園かも知れません。したがって、道に対する親密性が出てきますし、そこを歩くと、そこに住む人々の生活を垣間見ているという面白さもあります。
路地空間に接して生活している人にとっては、プライバシーは建物によって物理的に守られ、外界とは遮断されているのですが、路地という私的空間が、そこに住む人々の心の中で内なるものとなり、他者との共有感や一体感を生むのではないでしょうか。現代の団地や一戸建てではほとんど隣同士のコミュニケーションがないということを考えると、路地空間は、現代人が忘れかけている大切なものを温存しているような気がします。
尾道の路地を歩いていましたら、必ずといっていいほど井戸があります。 井戸はみんなの共有空間であり私的空間です。「私」のものであって、みんなのもの、そんな路地を尾道のまちづくりのなかに積極的に活かされて行かないものかと思うのですが。』路地シンポジウム/RojiShinpojiumu


美について


『それから、「美」ということを言われていましたが、路地空間にしても尾道のまち並みにしても、私も決してお世辞にも綺麗だとは思っていません。しかし、 例えば、歓楽街の電信柱一つをとれば美しくなるのでしょうか。尾道に電信柱がなくなってしまうと、空間の質的なものが失われてしまって、それは尾道の美しさではなくなってくるという気がします。例えば、尾道のあるゾーンについてはそこに合う「尾道美」というか、その地域にあった「美の基準」というものがあってもいいのではないかと思います。ですから、画一的に中心市街地、旧市街地と周辺のまちの「美の基準」が一致する必要はないと思います。』路地シンポジウム/RojiShinpojiumu
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